昭和五十六年五月二十一日 朝の御理解
御理解第二十一節
「信心せよ信心とはわが心が神に向かうのを信心と云うのぢゃ
神徳の中に居っても氏子に信なければおかげはなしカンテラに
油一杯あってもシンがなければ火が点らず火が点らねば世は闇な り信心なければ世界が闇なり」
世の光ともなるような信心を願われておるわけです。
世の光になるような信心とはどういう信心を云うのであろうか。我が心が神に向かうのを信心というのぢゃと仰せられるが、ただ神様に拍手して拝んどりますと 向かう事も成程信心でしょうけれども、その信心が光ともなるという所に私は焦点を置かなければいけない、ね。我が心が神に向うただけでも信心だと、ですからそれが世の光ともなる信心を目指す、そこにいうならば信心がただ拝むという事とか、おかげを受けるというだけでは世の光ともなる事にはならない。だんだんと信心を極めて行き進めてまいりますと、いよいよ難しゅうなって、助かりようがないような結果にしかならなかったのが過去の宗教だと思うですね。それはなぜかというと例えばなら、まあ仏教とかキリスト教とか大宗教が有りますが、仏教で云う因縁とか輪廻とかいう事を持ち出したら、助かりようがないのです。そりゃもう因縁だからとね、そりゃ輪廻のわざだという事になってくる、キリスト教に至ってはもう罪を罰だけで、しぼられております。先だって私は今夜の御祈念に出ませんけれども あのう、佐田紀子先生が奉仕をしておる正奉仕の時であった。夜の御祈念にまあ皆さんに御理解をまあ致しましたそうですが、その中に丁度、あのうローマ法皇のあの なんか狙撃事件かなんかあったあの前後の事でした。実は私はクリスチャンでありキリスト教の信奉者であった。それがお道の信心によってお道の教師にまで志さしてもらい、そして今現在では箱崎教会の長男である佐田秀記先生の奥さんとしてまあ只今修業中でありますが、ね。私がキリスト教でまあおかげを頂いておった時に、いろいろ話を聞けば聞く程 それは罪だ
それは罰だという事になったらもう助かりようがないという話をしたそうです。全くその通りです。ね、所がなら金光教ではです、まあ罪とか 四神様の御教えではないですけれども
「罰をあてる暇があるならばおかげをやるわい」とおっしゃったというような信心内容なのですね。成程前々のめぐりで難を受けおるという めぐりという事が出てくるんですけれども、このめぐりとても前々のめぐり、天地に対するお粗末、御無礼で自分の物でもないものを自分のような我侭勝手な生き方、そういう事が御無礼になっているんだと、だから次には だからそれが分かって詫びれば許してやりたいのが親心とおっしゃる。そこには罪もなからなければ因縁もない、消えて行くのです。和賀心の前には。教祖金光大神の教にはそれがないのです、問題はそこに気付いておかげを頂いていかねばならん。金光教の信心でもめぐりと云われますから、そりゃもうめぐりのせいだと云われたら助かりようがないです。所がめぐりが深ければ深い程いわば熱心な信心をさしてもらう。そしておかげを頂いた暁に分かる事は、あれはめぐりでも因縁でも輪廻でもなかった、罪でも罰でもなかったという事が分かるんです。
それ即神愛だったと分かるんです。これは昨日 今秋永英治君が毎日丁度御祈念の後に朝参りをして来ます。昨日のお届けですが、朝のお夢の中にそのコブラという蛇が居りましょう、こうふくらませてね。大変な猛毒の蛇です、それがね英治君に向かってこう食いつこうとして向かって来た。そん時ハッとしてそのコブラをよくよく見るとそれが草履に変わっていったというお知らせであった。
ここでは蛇のお知らせをめぐりとこう、ね、確かにしかし秋永家には普通のめぐりぢゃないね、それこそ猛毒を持ったようなめぐりがある事を秋永家全体の人がまあ感じておるだろうと思うです。
こりゃまあ秋永家のめぐりだというね。だから だけにそんならそれが毒薬が変じて薬になる時にはもう又とないすばらしい薬が、そっから出けるんです。だからそこをひとつ分かって秋永家にはこういうめぐりがあるが、このめぐりのお取り払いを頂かなければ本当にすっきりとした おかげにゃならんと、いうならば草履ばきの信心をするという事。草履ばきの信心とは一生懸命の信心をさしてもろうて、そして和楽路の道に出よという神様のお知らせであった和楽路の道と云のは 和楽の路と書く、ね、ですからコブラのような修業が だからそれが中途半端の時であって 難儀が難儀 めぐりがめぐりと云う時には、やはりめぐりであるけれども、それが信心によっておかげを頂いた時、お徳を受けた時に分からしてもらうのは あれはね いうならば力を下さろうとする、お徳を下さろうとする神愛以外には無かった。してみると大きな猛毒を持っておるかのように見えるその大きなめぐりが 大きければ大きいだけ、おかげも又大きいと仰せられるような、おかげが受けられるという事になる。だからそこに信心がいうならば仏教的な キリスト教的なふうにその事を頂いたら、いつまでたっても、仕方がないんだよ、これはめぐりだ罪だよ、だから罰だよ因縁だよ 輪廻だよという事になるわけ。金光教の信心も だから信心をね、その例えば難は霊験とおっしゃるが本当に難はみかげであると云う悟りが出けた時にね、ならめぐりは一変していうならば神愛であったという事が分かるでしょうが。だからそこにめぐりも因縁も実を云うたら、めぐりもないのであるのです。大きくおかげを下さろうとする働きだけなのです。けれどもそれをおかげと頂けれる悟りの開けないまでは、やっぱりそりこそ罰でもあろう、因縁でもあろう、めぐりでもあろうという事になるわけですから、どうでもお道の信心をさして頂く者は道の信心によって、和楽路の道に出らなければならん。
和楽の道に出らなければならん。為には、やはり草履ばきの一生懸命の信心が、なされなければいけない。私ね、世の光ともなるという信心はその和楽の道に出た時だと思うですね。お互いのいうならめぐりを克服したと思うておった そのめぐりそのものが神愛であったと悟れた時、初めて心の中に広々とした 有難い心が開けてくる、ね。有るもの それは即ち神愛であった。
お徳を下さる、力をくださろうとする働きであったと分かる。
いうならば和楽の道に信心によって出らせて頂けた時、はじめて世の光にもなる、家の光にもなる、自分の心の中の光にもなつてくるという事になるのです。ね、ただ我が心が神に向かうのを信心というのぢゃとおっしゃるのは 我が心が神に向かうて一段一段と本当の事が分かって、この世の中にはね 因縁もなからなきゃ罪もない、勿論罰などあろうはずがないと思うておったのは神愛であったと、いうならコブラからそれが草履に変わって行くおかげをね、受けた時はじめて世の光ともなる信心という事になるのではなかろうか。因縁を押し広めて行く 罪とか罰とかを広めていく。もう助かりようがないのです。過去の宗教だからね。何かあったら あそりゃ罪をつくったからだ、そりゃその為の罰だよと云うなら人間はその罪でも罰でも無い者を 罪、罰のそれこそまあキリスト教で云うならば一生を十字架をかろうて、いばらの道と云う事になるのですね。そこん所を私共の心を金光大神の教えを頂く事によってですね、成程難儀の為に一生懸命になった。そしておかげを頂いた、力を受けた、そして過去の事を振り返って見たら、あれはいうならば、因縁でも 罰でも罪でも、めぐりでもなかったと、あれはそれこそ神様が氏子を本当の光の世界に 出させて下さろうとする働きであったという事になるのです。和楽の道はそこに開けてくるのです。ね だからそういう事が分かっておっても、そこん所を通りぬけなければ、やっぱり めぐりはめぐり、罪は罪 罰は罰かも分かりません。けども私共がひと度神様の方へ心を向けて進んで行く 我が心が神に向かうて行く。生神を目指して頂くといったような信心にならせて頂きますと金光教には、そこにいわばすばらしい救いと助かりがあるわけです。過去の様々な宗教はそこの いうならば、から出る事が出けないような仕組みになっておる、という事はこれはまあ私がね、これをこんなふうに一生懸命云うておってもなかなか皆がそれを本当にそうだというふうに、受けてくれないと今日は私が其の事を思よったらね、神様が、頂く事が「予言者世に入れられず」と頂いたです。ね、私が本当なこつ、今まで過去の予言者が云うた事のない事を、私が云うておりますから やっぱ今までの観念のほうが強いですから、私の言う事はなかなか皆が聞こうとしないから、合楽理念を頂いて合楽では信心のおかげを頂いて、しかも和楽の道に出ようと念願する者だけは 聞いてもらわなければならない。ね 私の言う事はおそらく教団でも とても分かってくれないだろうと思うですね、そして私が亡くなって後々になってだんだん合楽理念によっておかげを頂いて助かる人達が沢山になってきた時にはじめて いわば世に出るという事になるのぢゃなかろうかと思いますけれども、合楽に縁を頂いておる人達はそういう、いうならば、ものを合楽で云われておる事がかくも お徳を受け、力を受けていく道である 和楽の道に住む事の出来る道であるという、実験実証を皆さんがなさって下さって、それを世に問うていくという事までいかなければ 私がいかにここで あのうまあ声を大にして叫んでも、今日神様から頂きますように、成程 予言者世に入れられずといったような、理のもとにですね、本当のおかげにもならないでしょう。けども合楽で日々こうやって、信心の稽古をなさっておる方は、今私が申しましたような所に焦点をおいての信心ですからその まあめぐりのに さいなまれる世界から光明世界に住みかえる。それはやはり 其の事に対して一生懸命 草履ばきの信心。
そこから和楽の世界、世の光ともなる というのはそれから先だというふうに思います。
どうぞ